読書感想文(仮)

森鴎外 『雁』 -- 沈黙する主人公と紅雀と籠と蛇 

森鴎外 『雁』 感想文 解釈

結婚の約束をした男に騙され、その上悪徳(?)高利貸し末造に騙されて末造の「囲いもの」となった悲運のお玉が、
大学生の岡田と知り合い、心ひそかに思慕を募らせるが・・・。
お玉、末造、岡田、三者の間に渦巻く思いとは。

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● 超越する語り手と不整合な視点

 この話の語り手は岡田の友人である「僕」である。
前半は「「僕」が見聞きした話」であり、後半は「「僕」がお玉から聞いた話」である、と描写される。だが、
この語り手「僕」の在り方は特殊である。
物語中では末造の内心、末造の妻のお常の気持ちが事細かに語られるが、お玉の心情はともかくとしても、
末造やお常の気持ちはどうしたって「僕」が知るはずのないものだ。
語り手「僕」の視点は、明らかに「僕」の知り得るものを超越している。

まずその語り手の特殊性を考えてみたいが、おそらくそれは一つには彼らの関係性を明らかにする手段だろう。
末造がお玉に対して正体を偽り商人を騙ること、妻お常に対して妾の存在を隠すこと、
また、お玉が岡田への思慕を末造に隠すこと、彼らは表面と内心とでは別の顔を持っているのであり、
つまり彼らの異なる表裏、「だまし合い」の関係性がこの超越する語り手によって表現される。

この視点のブレを描写の破綻とみるか、また読者を物語に誘うための仕掛けとみるか。
これは評価の分かれるところであるようだけれども、ここではその意味を逆から考えてみたい。

 語り手が各自の内心を自由に超越するこの世界は、逆に超越しないものの異質さを際立たせる。
この物語において、頑なに「語られないもの」は何か。「岡田」である。この物語において、岡田の内心は描写されない。
この語り手は、岡田の内面だけは侵犯することはない。
侵略する語り手の在り方は、岡田の沈黙を際立たせ、「空白の行為者」として明確に逆照するのだ。

では、岡田が「語らない」ことで何が起きるか。

 象徴的なのは蛇退治のシーンだろう。お玉が末造から贈られた番の紅雀が蛇に襲われる。偶然通りかかった岡田が蛇を殺して雀を救う。
岡田はその顛末を「僕」に語る。
この事件は彼らの目にはどう見えていたか。


 まず語り手の視点は末造の内部に入り込む。
末造の目からみれば、沈んだ強い色の紅雀はまさにお玉の象徴であり、末造にとって紅雀は当然
つがいとしてあるべきものであり、当然籠とセットで手に入るべきはずのものであった。
これはお玉を無縁坂の家に囲い、お玉の内心の醒覚を知らず、ただ「赤ん坊のように」錯認し、可哀らしいと愛でる
末造の心情に合致する。
 そんな末造は当然、紅雀がお玉と岡田を近づける未来も、蛇に襲われる未来も知る由もない。

 では、話を聞いた「僕」視点ではどうか。
語り手の視点が「僕」にあるとき、この蛇退治は典型的な英雄譚となる。
「僕」は、この蛇退治を「女のために蛇を殺す神話めいた」話と評する。
ヤマタノオロチの生贄とならんとするクシナダヒメのためにオロチを倒して姫を娶るスサノオの神話、あるいはその類型と
とらえてよく、つまり紅雀は「囲い者」たるお玉、それを蹂躙する悪しき蛇は末造であり、「僕」が蛇=末造を倒し、
紅雀=お玉を救い出すという構図であろう

 だが次に視点が「僕」を離れると、そこには不穏な影が落ちる。
紅雀を蛇から救いはするけれども、紅雀の一羽は蛇に飲まれて死んでいるのであって、生き残ったもう一羽も逃げることを許されない。
破れかけた「籠」は、頑丈に補修されて再び紅雀を閉じ込め、その補修には「元結の紐」が使われる。
「元結の紐」はお玉のもので、髪を美しく銀杏返しに結ったお玉の象徴といってもよく、それがお玉自身によって鳥籠の補修のために差し出されるのである。
さらに、蛇を切ったものは肴を切る包丁であり、これも女の道具である。包丁は蛇を切ることによってその血に穢れ、もはや使い物にならない。
 もっと言うならば、蛇を退治したのは果たして岡田といえるのか。
たしかに蛇を包丁で切ったのは岡田であるけれども、岡田の仕事はそれまでであって、籠を下ろして紅雀を離させ、
蛇の死骸を片付け、すべての始末をつけたのは、名もない通りがかりの小僧なのである。
そして包丁で蛇を切り落とす描写は、少々過剰とも思えるほどに残虐である。岡田の仕事は、英雄たるにはだいぶ不足なように思える。
 「僕」視点では典型的英雄譚であったこの蛇退治は、「僕」の視点を離れれば不穏をはらんでくる。

 次に語るべきお玉について少し見ておく。
お玉は末造に騙され、一種の諦めによって囲い者に甘んじていた女性ではあるが、この暮らしの中で「醒覚」し、自我に目覚める。
ひそかに末造を欺くようになり、そしてこの蛇事件をきっかけに岡田への思いを自覚し、それを行動に移す決心をする。
 『雁』の世界観の背景には北川氏※1らによってイプセンの「人形の家」の影響が指摘されているが、
お玉の造形は、ここでいわゆる受け身の「待つ女」から「行動する女」へと変化していく。
しかし、お玉が自立した女性として羽化できたかというとそこにはだいぶ待ったがかかるのであって、紅雀を閉じ込めるための
鳥籠の補修に自らの象徴でもある元結や包丁を差しだす姿はその留保の象徴と読めよう。
 このことについては、金子幸代氏が、「お玉は「自我の醒覚」後も(略)他者をあてにする女性として描かれている」と
指摘しており、醒覚したお玉の限界をそこに読んでいる(※2)。

 だが、この蛇事件の「お玉視点で」の意味を考えるならば、この出来事がお玉にとって暗い意味を持っていたとは考えにくい。
お玉はこの事件を経て「自分の心持が、我ながら驚く程急劇に変化して来たのを感じ」、「小鳥を助けて貰ったのを縁に、
どうにかして岡田に近寄りたい」と思ったのであり、この一連の事件は、お玉にとっては醒覚の大きなきっかけだったはずなのである。
 「お玉視点で」は、この蛇事件はどう見えていたか。

 玖において、お玉の性質はこう描写される。
「一体お玉の持っている悔やしいと云う概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。強いて何物をか怨む意味があるとするなら、
それは我身の運命を怨むのだとでも云おうか」。
つまり、お玉が恨みを持つとすれば、相手は人ではなく状況なのである。
「僕」の蛇退治英雄譚では蛇=末造とみた。だが、そうであるなら、お玉にとっての籠と蛇は意味を違えるのではないか。
お玉の性質にとっては、紅雀を蹂躙する悪しき蛇は末造ではない。蛇は「誰か」ではなく「状況」の象徴なのであって、
であるならば、紅雀の籠とは、お玉を守るmimicry(擬態)の象徴だったのではないか。
 仮にそう見るならば、「醒覚」したお玉が蛇を菜切包丁で断ち切り、籠を元結で補修する行動は一貫している。
お玉はこの不幸な「状況」を断ち切るために自らの包丁を差出し、自らの元結でmimicryを繕って武装したのである。
それはお玉にとって自立の端緒でこそあれ、限界を意味するものではなかったはずだ。

 籠と蛇とに何を投影するか。三者の視点は交わらない。
ひとつの視点ではお玉の自立の端緒であるこの行動は、同時に逆側から見れば不穏な影でもある。
この視点の不整合を際立たせるのは、先に見た語り手の特殊な在り様である。
語り手が各人物を自由に侵略し、同じ対象に対して違う意味を投射する視点を平行的に描写する結果、
この蛇退治譚は複層的に意味を照射され、シュレディンガーの判じ絵状態となるのだ。

 その判じ絵の答えは何か。
 おそらくは、このシュレディンガーの箱を開けるべき者は岡田だったはずである。少なくとも三者の平行線を
一点に集約する役割を担っていたのは岡田だった。
岡田がこの事件において何を思ったか、岡田が語ればその言葉はどれかの視点の優位性を決し得ただろう。
だがこの語り手は岡田だけを侵略しない。岡田は語らず、あくまで空白の行為者のまま在るのであり、この判じ絵に答えは付されない。
岡田の沈黙によって、この事件は三重写しの平行線のままで物語内に留め置かれているのだ。


● 語らない「岡田」の位相

 では、“語らない岡田”は何者なのか。

 岸田美子氏は、『ヰタ・セクスアリス』との比較のうえで、「岡田の友人に、鴎外その人と見られる素顔の人物「僕」が
登場してゐる。併し美靑年岡田も亦、モデルとなった實在の人物があったわけではなく、「美しい夢」の鴎外その人と
見られるのである」とし、岡田=僕=鴎外自身であることを指摘している。(※3)
 岡田と「僕」が同じ根を持つ存在としたならば、岡田と「僕」の表象を分けたものは何か。

物語は、その後急速に終末に向かう。
夕飯の肴が偶然「僕」の嫌いな鯖の未醤煮だったために「僕」と岡田は不忍池へ行き、そこで偶然友人と会い、
雁を逃がそうとして投げた石が偶然その雁を殺し、雁を隠し持っていたためにお玉と岡田に言葉を交わす機会は与えられず、
留学する岡田とお玉にそのまま別れが訪れる。
つまり、まったくの偶然によって二人はすれ違い、恋は儚く散ることになる。
岡田に殺された「不しあわせな雁」は、僕によってお玉の印象と重ねられる。鳥籠にも似た岡田の円錐の外套の中で、
紅雀たる恋するお玉は無残に死ぬのである。

 この結末に至って、各人の意志思惑を超えて不条理で唐突な「偶然」がすべてを決するのであり、
この「偶然」によって決せられる結末の在り方については「悟性的理性的な論理と功利主義に支配される男性的世界と
意志的行動的な女性的世界の越えがたい懸隔の象徴」(※1)や、
「岡田の生きる近代日本の学術、知識の世界のエリートの論理と、お玉の生きる庶民の論理、
あるいは近代日本の男性的原理と女性的原理との間の超えがたい溝」(※4)を読み込む指摘がある。
『舞姫』と同様、ある意味非情な男性原理が根底を流れていると読むことも可能だろう。

さらにこの結末を見ていく。
物語の終末において、これまで分離していた「僕」と岡田の行動は重なる。不忍池に同行した弐拾弐において、「僕」は語る。
「僕の胸の中では種々の感情が戦っていた。この感情には自分を岡田の地位に置きたいと云うことが
根調をなしている」「僕は岡田のように逃げはしない。僕は逢って話をする。自分の清潔な身は汚さぬが、逢って話だけはする。
そして彼女を妹の如くに愛する。彼女の力になって遣る。彼女を淤泥の中から救抜する」。
「僕」はお玉に好意を持っているのであり、岡田に代わりたいと思い、お玉をこの状況から救いたいと思っている。
これは、まさに物語が岡田に求めている役割と同じであり、「僕」が岡田の分身たる立場にあると読めるだろう。
しかし、「僕」のこの思いも成就はしない。
物語が語られる35年後の世界において、理由は語られないながら「只僕にお玉の情人になる要約の備わっていぬことは
論を須たぬ」らしい。
お玉と岡田の恋模様得を描くこの世界で、当然ながら、「僕」がお玉と結ばれる余地はない。

 しかし、先ほどの岡田=「僕」を考え合わせると、この「僕」の発言にさらに意味を見出せそうに思える。
「僕」の物語において、「僕」がお玉と結ばれ得ぬのはそこに岡田という留保があったからである。
しかし「僕」と岡田が本質的に同じ存在でありどちらも作者の分身であったするなら、
むしろ、お玉の相手役たる地位から「僕」を下ろすためのエクスキューズとして岡田が配されたといってよく、
「僕」の物語における岡田は、「僕」がお玉と交わらないためのヒトガタの役割を与えられていたと言ってよいかもしれない。
 一方、「岡田」の物語において、岡田もお玉と結ばれることはなかった。
岡田の物語において恋が成就されないがための留保として配されたのは、鯖や雁や釘の一本、つまり意志思惑を超えた
「偶然」であった。
 岡田とは何であったのか。この「僕」の物語と「岡田」の物語の対照を重ねるならば、岡田の存在と対応するものは「偶然」そのものではないか。

 あらゆる人物を侵略してその心情を叙述する語り手が、岡田だけは沈黙の世界に残し、物語上の空白たらせた理由も
そこにあるとしたらどうか。
つまり、岡田は何事かを語るだけの意志ある行動者なのではなく、人の意志の及ばない「偶然」の謂だったのだとしたら。

お玉の恋心はその時雁のごとくに殺された。だがこの35年後の終幕でなお、お玉は「僕」にこの話を語ることができる存在である。
お玉は35年後まで生き永らえ、そしておそらくは35年後もそう悪い暮らしに身を置いているわけではないらしい。
「僕」にお玉の情人になる要約は備わってないながら、「お玉が情人を持つ」ことは許されている世界でありそうだ。

 上述の金子氏が、醒覚したのちでさえ他者=岡田の救いを望んでいる点をお玉の限界として挙げていたけれども、
もし岡田を表象層での「偶然」のいわば擬人化ととらえるならば、醒覚したお玉の結末はむしろ岡田に救われる者であってはいけなかった。
岡田によって救われる部分はお玉の一生において釘一本によって左右されるものにすぎなく、
変化されなかった部分にこそ、その本質があるべきであった。
末造に囲われたお玉が岡田=偶然に救われるという結末であったならば、それこそ「人形の家」のノラの結婚が
父親のための「人形子」から夫のための「人形女」に移っただけなのと同じ構図なのであって、
運命に翻弄されるだけの前時代的な弱い女性像を超えるものではなかっただろう。


 もちろんこの物語は、一面から見れば、偶然のいたずらによって愛する者と結ばれ得なかった女性の悲運の物語である。
だが、お玉は悲恋の運命がそのまま死につながるような類型人情話な造形ではないし、近代男性原理社会の犠牲として心を病んだエリスとも違う。
つまり、この物語を別の一面からみるならば、不幸な境遇を甘受してきたお玉が醒覚してmimicryを得、
運命の流れの中で自ら立ってその先に進むことを匂わせる物語でもあるのではないか。
それは、運命的な切ない悲恋の中に、新しい、意志ある女性の萌芽を感じさせるものである。

超越する語り手によって複層化され、答えの付されないこの物語の構図の中に、その一層の可能性も含まれていたら。
少々願いを込めた、そんな感想である。


(※1 北川伊男 『森鴎外の観照と幻影』 近代文芸社)
(※2 金子幸代 『鴎外と〈女性〉-森鴎外論究』 大東出版社)
(※3 岸田美子 『森鴎外小論』 至文堂)
(※4 竹盛天雄「雁」 (稲垣達郎編 『森鴎外必携』)  学燈社)
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